2013年10月28日月曜日

「光の子」らの先へ(ルカ16・8,主日礼拝)

この世の子らは,自分の仲間に対して,光の子らよりも賢く振る舞っている(ルカ16・8)
本日の主日礼拝の説教は,先週に引き続いて「不正な管理人」のたとえについてであった.本日の説教では,このたとえの最後の部分「神と富とに仕えることはできない」を扱ったのだが,このたとえについては,その一節一節についてじっくり考えてみたいので,今回は前回の続きを書こうと思う.

 前回のブログ『すばらしい「不正」』では,不正な管理人が,債務者・主人・管理人のすべてに喜びを与えた「不正(律法違反)」について考えてみた.その時に,上記の聖句については触れなかったので,ここで触れてみたいと思う.

 この聖句で気になるのは,まず「光の子」という特殊な表現だ.「光の子」という表現は,新約において,このルカ16・8,テサロニケI 5:5,エペソ5・8,ヨハネ12・36だけに出てくる.知っている方も多いと思うが,「光の子」は死海文書の「戦いの巻物」中に出てくる表現であり,最終戦争において勝利する者達のことである.おそらく,クムラン宗団やエッセネ派の影響を受けていた原始教会において用いられていた終末論用語と推測される.死海文書によれば,この「光の子」らの敵は「闇の子」であり,最終戦争において「闇の子」は滅ぼされることになっている.しかしおもしろいことに,ここで「光の子」らに対比される者達は,「闇の子」ではなく「この世の子」である.

 最終戦争の後に,「光の子」らが「信仰により救われた者達」,「闇の子」らが「信仰を拒否して滅ぼされた者達」となるのであれば,その最終戦争が起こっていない時点での「この世の子」らは,「現在救われてはいないが,救われる可能性が残されている者達」,すなわち「(完全な)闇の子でも光の子でもない者達」を言い表していると考えられる.

 さて聖句では,その「この世の子」らが,ある種の賢さ,すなわち自分の仲間に対する賢さにおいて,「光の子」らを上回っていると主張している.「不正な管理人」のたとえでは,管理人の不正な「抜け目ないやり方」を主人にほめられたのだが,それが「賢さ」を意味するとすれば,「この世の子」らの賢さについても,イエスは評価をされていることになる.ではなぜ「この世の子」らの賢さをイエスは評価されているのか?

 「この世の子」らは当然のことながら,この世に生きている.彼らには真の信仰がなく,彼らの思考パターンは,基本的には経済学的(Give & Take)である.この世に生きる彼らの人生の目標は,この世における自己の利潤追求(この世の富)である.ここでは便宜上,「利潤」と言ったが,その中には財産だけではなく,「権力」「名誉」等も含まれている.したがって「利潤」を「快楽」と言い換えても良いだろう.この世の富(財産,地位,権力,名誉等)は快楽を生み出すがゆえに,それを追求するわけだ.当然彼らの関心は,この世に存在する自己の所有する富,あるいは自己所有の可能な他者の富である.他者所有の富は,基本的には,自己所有可能な富と考えていいだろう.

 「この世の子」らの利潤追求行為(経済行為)は,この世の他者との交流や戦いにおいて成り立っている.特に自分に利益をもたらす仲間(味方)に対して行為者は,うまく折り合いを付けて,共存を探りつつ,自己の利益を追求していかなければならない.「この世の子」らの知恵は,その利潤追求行為の一環として駆動されている.この利潤追求行為の経験によって得られ,蓄積された知識こそが,彼らの「賢さ」である.その賢さの中に,「不正(律法違反)」に関するテクニックが含まれるのは言うまでも無い.この世に生きる彼らにとって,律法遵守はさほど重要なことではない.イエスは,彼らの賢さの中でも,「自分の仲間に対する賢さ(折り合いと共存の知恵)」をほめ,評価したのだった.これに対して「光の子」らはどうか?

 「光の子(救われた者)」らの関心の対象は,この世に存在しない.彼らの関心は,終末と終末時の自己の「救い」にある.信仰によって究極の目標を得たと信じた彼らには,「この世の子」らのように,富を追求する意欲も無く,神とのネゴシエーション(取りなし)に悩んであれこれ知恵を絞る必要も無い.それゆえ彼らは経験を積み重ねることもないため,知識も増えてはいかない.つまり「光の子」らにおいて,「賢さ」はその進歩を停止している.それに対して「この世の子」らは,この世に対して貪欲であり,自己の利潤・快楽の追求を止めることはない.故に彼らのその賢さや知識は増すばかりである.

 さてそれではイエスがなぜ,終末論用語である「光の子」と言う表現を,わざわざここで用いられたのか?

 ご存じの通り,この聖句はファリサイ派や律法学者だけではなく,弟子達,すなわち信徒に向けられたものでもある.終末論用語をイエスが用いた理由は,おそらく,新約の他の部分も指摘しているとおり,信徒の中に,終末が明日にでもやってくると信じ,その時の「救い」以外に,関心を持つことのできない者がいたからだろう.

 「救い」をあまりにも重視しすぎた彼らは,入信によりそれを得て,心の底から安堵したことだろう.入信により,究極の目標を達成してしまった彼らの中には,「自分は救われ,明日には世界が滅ぶのだから,もう何もしなくてもいい.何をやっても無駄だ.」と考える者も出てきたのだろう.またそのような考えを持つ者の中には,「この世の子ら」に対して優越感・選民意識を持つと同時に,クムラン宗団がそうであったように,「この世の子」らの接近に対し排他的な態度に出ていた者,あるいはグループも存在していたのかもしれない.クムラン宗団が消滅したように,そのような考えを持ってしまった信徒達が,その後,転落していったことは想像に難くない.つまり「光の子」と言う表現は,信徒の中の堕落してしまった早期終末論者を批判するために,イエスが用いられたと考えられる.彼らは「救い」の心地よさに眠ってしまったのである.それゆえ神の呼びかけを聞くことができない.

 「この世の子」らは,限りなく「闇の子」らに近い.しかし,彼らには「光の子(救われた者)」となる可能性が残されている.そして彼らが回心し,信仰により救われた後,「救い」のみに満足することのない彼らの持つ底なしの欲望の鉾先が,「この世の富」から神へと,「天の富」へと方向転換するのであれば,彼らは神のみこころを貪欲に求め,神の呼びかけに応答し,活発な活動を精力的に行うであろう.その時,彼らが「この世の子」らとして生きていた時に得た,「不正」をも含む知識や経験,すなわち「賢さ」は大いに生かされることになる.

 管理人が「不正」によって友と生活を得たように,彼らも友と生活を得るであろう.こうして「放蕩息子」のたとえと同様,後の者は先になり,彼らは「光の子」らではなく,キリスト者となる.

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